1951年(昭和二六年)

●開店。女性が酒場に出入りできる最初の店だった。
●舞台芸術学院出身の若者3人で創業。名付け親は同学院長の秋田雨雀。

本郷 新 - Shin Hongo -

本郷新写真

 一人では酒場に入ることの出来なかった頃の事だ。その頃新宿の映画館裏は戦争のあとかたづけも出来ぬザラザラした所だったが、地上からニ〜三尺のところにどん底の白い文字が杭とも板っぺらともつかない形で斜めになっていた。それはバラック建てのその酒場にまことにふさわしい看板であった。はじめて酒場に入る自分の気持とピッタリと合った呑み場を見つけたわけだ。湿っぽい土の上に手製の机と椅子がある。酔うにまかせてそこではじめて知り合ったある俳優夫妻の似顔を画いたがそれが『どん底』の最初の壁を飾る事になた。その夜の『どん底』の情景は今の『どん底』の伝統となったように思われる。
(生前のコメントより抜粋)

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青春/愛川欽也 - Kinya Aikawa -

開業時の写真 『どん底』が新宿に生まれた頃、一九五一年(昭和二六年)の四月に僕は俳優座養成所三期生として、芝居の世界に一歩足を踏み入れた。それから『どん底』にも、僕にも五〇年の時が流れた。

 一九五一年のあの頃、楽しかった。夢があった。そして貧乏だった。

 三期会(現・東京演劇アンサンブル)の入江洋佑さんは、当時日暮里に住んでいた。同期生の本郷淳さんと僕は、洋佑さんの家によく遊びに行った。洋佑さんの家のそばにある朝日食堂のラーメンとアイスクリームが安くて好きだったのと、洋佑さんのお母ちゃんが(皆がそう呼んでいた)やさしかったので、僕の住んでいた巣鴨から山ノ手線の日暮里までの、定期券を買って通ったものだ。

 その頃、酒をあまり飲めない僕を、本郷淳さんが『どん底』に連れて行った。本郷淳さんと智さんが親友だったこともあって、淳に連れて行かれたのだ。オレンジジュースのようなものにアルコール(多分、焼酎だと思う)を入れた、どん底カクテル、略して『ドンカク』を飲んだことがあった。頭が痛くなった。アコーディオンでロシア民謡を弾いている人がいたと思う。

 僕は一〇年前の『どん底四〇周年パーティー』で司会をやった。あれから一〇年が過ぎたのか。早くて困る。そして去年、『どん底』の宣伝部長のような本郷淳さんが、亡くなった。東京演劇アンサンブルの稽古場での思い出の会からも、又一年過ぎた。青春は遠くに遠くに行ってしまい、とり戻すことは出来ない。僕は別の青春を探して、最近戯曲を書き、舞台俳優に燃えはじめた。

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