1954年(昭和二九年)

●渋谷に姉妹店「バローン」開店。
●新宿文化会館で「四周年記念“どん底祭”」開催。

パズルの階段/渡辺美佐子 - Misako Watanabe -

 コーラのような色をした“どんカク”を、木のベンチに坐って飲んだのが、私のはじめてのアルコール体験だったと思います。なにしろ五〇年近くも時が経ってしまっているのでおぼろげな記憶なのですが・・・。

渡辺美佐子氏と

 稼ぎのまるでない俳優の卵たちといっしょで一杯五〇円(?)の“どんカク”をちびちびと。小さなじゃがいもを丸ごとベーコンと炒めた一品は私のお気に入りで、今でも新じゃがが出始めると家で作っています。迷路のような古材の木の階段をぐるぐる上がっていくと、どこかの隅から仲間の顔がぬーっと現われて、あの不思議な空間は、私の青春の小さな場所としてしっかりと今でも存在しています。“五〇年、よく生きのびてきたね!”というびっくりマークの言葉は、そのまま私自身にも返ってくるのですから。

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思い出すことごと‥‥/帯盛迪彦 - Michihiko Obimori -

 一九五四年八月のある日の昼下がり、私達、慶応大学部落問題研究会のメンバー一〇名余りが、山あいの街・N駅の改札口付近で、私達の研究活動を側面から支援してくれるためにやって来る「東大音感合唱研究会」(トニカ)の人達を出迎える為に集まっていた。

 やがて汽車が着き、一行が駅のブリッジを降り私達と合流した。その中に後に『どん底』で親しく付きあうようになった、笠原信一君が居た。見るからに重そうなアコーデオンを肩に掛け、照れたようなほほ笑みを絶やさず、少し前かがみに歩く姿を、今も鮮明に覚えている。

 はなしにきくカストリ、バクダンの時代はすでに過ぎ、小皿に乗せた厚手のコップになみなみとつがれた粗悪な焼酎を、梅かぶどうのエキスで割った三〇円の梅割り、ぶどう割りがもっぱらで、メーデーの流れ解散のあとのビヤホールで生ビールにありつくのが、ちょっとした贅沢だったわが酒道開眼時代にあって、たしか一杯五〇円したどん底カクテルには、高級酒にふれる感じがあった。

 私達は、合宿所として使用していた公民館までの三〇分程の道を、初対面のぎこちなさと、言うに言えない仲間意識をないまぜにした気持ちで、寡黙気味に歩いていた。

 やがて市街地を抜ける頃、私は、思い切って笠原君に、アコーデオンを担がせてくれないかと声を掛けた。ちょっと驚いたように顔を上げた笠原君は、あのほほ笑みの顔で、「・・・あの・・・これは・・・僕の・・・」と丁寧に拒絶した。そうだったのだ。アコーディオンは彼にとって掛け替えのない大切な物だったのだ。それをたった今知り合ったばかりの他人に、ほいほいと預ける訳にはいかないのだと気付いて、小さな親切を押し付けようとしたこっちが恥ずかしくなった。

 「トニカ」のメンバーは、私達と共同生活をして、その間、地域の子供達や大人達を始め近隣の町や村へも足を延ばして「うたごえ」を広めて五日間の予定を終えた。
 夜行列車で帰京する彼らを送るため、私達は深夜の街をあたりの迷惑を顧みず、ロシア民謡・労働歌を大声で歌いながら駅まで歩いた。勿論あの重たい笠原君の宝物は、私の肩にぶら下がり揺れていた。

 余談になるが、その後私の伴侶となった女性は「トニカ」のメンバーの一人だったし、その他数組のカップルが誕生した。なんと言ってもみんな若々しかった。正に青春そのものだった。

 『どん底』で笠原君と再会したのは、彼がそこでアコーデオンを弾き、歌唱指導をするようになってからであった。私はドンカクを片手に、調子っぱずれの叫び声を上げて歌いまくった。そんな音痴の私達を相手に、いつもにこにこと笑顔を絶やす事なく、アコーデオンでリードしてくれた男、それが笠原君であった。

 一九六九年夏、私の五本目の映画「新宿番外地」のワン・シーンを『どん底』の三階を借りて行った。その時の歌は、「フランシーヌの場合は」であり、アコーデオンの伴奏をして頂いたのは、笠原君ではなく渡辺光子さんであった。

 『どん底』では、数多くの友を作ることが出来た。その交友は四五年あまり経った今もまだ続いている。数々の思い出を作り、育んでくれた『どん底』が末永く青春の酒場であり続ける事を願いつつ・・・。

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