1955年(昭和三〇年)

●四月火災。
●九月新装開店。

黒部進 - Susumu Kurobe -

55年当時 改装中のスナップ写真 小生、富山県の黒部という片田舎から東京に出、大学も満足に卒業しないまま東宝映画に入ったのは二一才の時である。記憶は定かではないが、どうも二〇才位からどん底に出入りし始めた様な気がする。何がきっかけか忘れたが、どうせ『女だろう』と皆が言うに決まっている。

 当時といえば今から四〇数年前、金もなく、大学もつまらなく、何かに飢えている男や女が日ごと夜ごと蠢いていたものである。何だったのだろう。そう、同志なのか、酒なのか、男や女なのか、いや、そんなものではない。アートなのか?そう。芸術だったのだろう。当時は新宿はアメリカ、グリニチべレジとも言われ、芸術の発信地、風月堂や、ジャズのキーヨ、そして外せないのがどん底であろう。ここからは後に芸術に身を置く青年たちが続出し巣立っていったのである。
 小生も便所に行かない日があってもどん底に行かない日はなかった。いや、楽しい夜毎であった。何が? 想像にまかせるヨ。

 相ちゃんにも良くしてもらった。所で、私の飲み代の当時のツケ、残っていないだろうネ、相ちゃん。

 振り返って見れば、どん底は当時の青年達に青春の核を植え付けた場所でもある。恋であったり、芸術であったり、失恋であったり、色々と。貢献度はすごいぞ。ポッと出の田舎者が通い詰める内に俳優として何か必要なものの一つ二つは身につけた場所でもある。だから今でもまた行きたい。四〇数年経っても。

目次へ

「おいしいこと」/入江洋佑 - Yousuke Irie -

 『どん底』のオーナー、矢野智君は、すぐれた味覚の持主だとぼくは思っている。といっていまTV番組で溢れているグルメといった無駄な味覚ではない。働いている、学んでいる貧乏な若者たちが、安くて、本当においしいと感じる生きた味覚だ。「どんカク」がそうだ。『バローン』もそうだ。戦後初めてサラミを食べたのは『どん底』だったし、ピッザを初めて作ったのも『どん底』だった。『どん底』についての想いは山程あるが、これはみんな同じだろう。そこでぼくは、おそらくぼくだけが知っていることを書いてみよう。それはオーナーさとしさんの実家のことだ。

 芝居の世界に「先乗り」ということばがある。いまの会社風にいえば、出張のセールスマンにあたるのだろう。一九五五年、当時は旅に出ても泊るところがなかった。まして劇団を作ったばかりの僕たち東京演劇アンサンブルはお金もまったくない。そこで先乗りで行く時には、友人の実家、組合の事務所などで寝たものだった。

 さて、終列車で広島県の本郷というちいさな駅に降りた。一八才の時である。さとしさんから「駅からこうこう行きなさい。家には手紙を出して置くから」。これだけを頼りにしてさとしさんの実家の前にたった。玄関は暗かった。いまと違って電話なんか無いから、さとしさんがチャント連絡してくれたのか確認のしようがない。胸が苦しい。が、ほかに泊まるところもお金もない。「ゴメンクダサイ」と叫んでしまった。
 とたんにパット電燈がつき、丸眼鏡をかけた長身のオジサンと、ふっくらしたオバサンがいそいで出て来た。ぼくは、その時に云ったことばをいまでも覚えている。

「あのわたくし、入江洋佑と申します。ご子息のさとしさんが、いいからうちにお泊りよといってくださったので、甘えて参りました。・・・・アノーさとしさんから何か連絡がございましたでしょうか」。この辛さ、わかって貰えるだろうか。
お父さん「あゝ、手紙がきとったですネ。あんまり遅いので今日は来られんのかと、心配しとったです。エカッタ、エカッタ」。
お母さん「疲れんちゃったとでしょう。すぐ風呂に入りんさい。お父さんも心配して、待ちくたびれて、もう飲んどってです」。

 柔らかな広島言葉で温かく包まれた。
 そしてお酒、ビール、松茸、お母さんのたくさんの手料理。おいしかったし、嬉しかった。食後に囲碁を教えてもらった記憶もある。

 さとしさんのお父さん、お母さん、本当にありがとうございました。
 あの時のご馳走、『どん底』のピッザより美味しかったみたい・・・・アハハ。失礼。
 五〇周年、おめでとうございます。

目次へ