1957年(昭和三ニ年)

●歌声草創期
●一二月、銀座四丁目に『どん底』二号店(その後「ローザンヌ」と改称)オープン。

黒澤監督に酒を奢った話/野上照代 - Teruyo Nogami -

 あれはなんの時だったか何かの帰りに、私は黒澤さんと新宿にいた。雨が降って来た。黒澤さんは空を見上げて
「ちょっと飲みたいね」と言う。「どこか店知らない?」と、雨宿りのつもりかすぐどこかへ飛びこみたい体勢だ。
 「私が知っているのはこの辺じゃ『どん底』しかないなあ、いいですか、どっちかっていうと歌声酒場風だけど」雨足がやや強くなって来た。黒澤さんは
「いいよ、なんだって。飲めりゃ」と言ってから立止り、
「いけねぇ、俺、今日金持って無いんだ」と言った。
「いいですよ私持ってるから」
「ノンちゃんにオゴってもらうなんて、面目ないなあ」と変なところで遠慮する。
「いいじゃないですか。安いとこだもん」と押し問答しながら『どん底』のドアを押して入った。入り口のカウンターに並んで腰かけ、サントリーの角を水割りで飲んだ。
 黒澤さんは飲みながら何度も「ノンちゃんにオゴってもらったんじゃあ、スマンネ」と言った。
 突然、天井から水が落ちて二人の間にバシャッとかかった。私たちは吃驚して立上がり天井を見た。あれは雨水だったのだろうか。
 黒澤さんは晩年になってからも、わたしに酒を奢ってもらったと、人に話し、その度に「天井から水が降ってきてさ、びっくりしたなあ」とつけ加えた。余程安普請の店だと思ったらしい。

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私と『どん底』/市毛洋 - Hiroshi Ichige -

 五〇年前を調べると、関鑑子編集の「世界でもっともよく歌われている歌の本」が流行っていたそうだ。小生にも歌声に惹かれてお店に入ったらリーダーが、次は「カチューシャ」、と声を上げた。旧くさい「別れの辛さ・・・・」かと思ったら「りんごの花ほころび・・・・」には面喰った。以来歌集を求めると「海に来よ」「しゃれこうべの歌」等が新鮮に映り、今日の愛唱歌となっている。

 当時は「トリスバー」等国産洋酒メーカーの看板を掲げた店が林立し、学生服でストレート三〇円、ウォッカ四〇円を愛飲していた。余裕のある時はスーツに着替え、「紀伊国屋」で「世界」を求め、三越裏の「つな八」で天麩羅定職二五〇円(活き海老二本付)でリッチになり、歌声を聞き乍ら一〇円高いトリスや、一六〇円のビール(六三三ミリリットル)を頂いた。二階のカウンターには職を持つ女性が多かった。自称モデルやスチュワーデス、化粧品のマネキン等、皆ナイロンストッキング(五〇デニール)にハイヒール、まぶしい存在だった。
 高校生の妹を連れた時は三階の歌声に参加したが、合間に踊り場のピアノで「トルコ行進曲」を弾いていたら場違いで叱られた。

 四〇年前にサラリーマンとなり、国立のある独身寮に戻る途中、仲間達とノックしたものだ。全員が地方出身者故、二回の暖炉の前で抱擁する男女を三階から体を乗り出して羨んだものだ。
 家電品の仕事なので、テレビ、冷蔵庫、洗濯機という三種の神器から、カラーテレビ、クーラー、車という3C時代に入り、いつの間にか社用族ともなりお店を訪れる回数は減りつつあった。それでもお客と別れた後、カウンターを訪れ自分を取り戻したものだ。

 冨澤シェフに「巨人」の対戦相手の敗戦を確認し、定連と仕事以外の話をしてから帰宅すれば、仏頂面が消えて妻の前では出掛けの朝の笑顔が復活する。お陰で未だ続いている。
 単身赴任の最中も、金曜日帰宅の前にお店で一息入れるのがお定まりのコースであった。そういえば転任や赴任の都度、お店で送別会を開いて貰ったが、旬日を経ない中に顔を出すと、相川さんに「お帰り」と云われて照れ臭かった。

 家電勤務三〇年を経て、洋菓子業界に転じたが、最初の仕事は商品開発。試作のケーキをお店に持ち込み女性客の評判を聞こうとしたが、カウンターの周囲は悪童ばかり、あまり参考にはならなかった。
 それでも小生に好意を寄せる女性が居たので、いつ迄も我が手許に置かんと、息子に引き合わせたが、これも悪童連が二階のお見合い会場に闖入してきて失敗に終わった。
 女子社員が多い職場なので、綺麗な順に連れて行き見せびらかすのが唯一の意趣返し、唯昨年から年金生活に入ったので、次は息子の嫁を連れて行くか、後五年通うと、小生のどん底訪問五〇周年となる。

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