1961年(昭和三六年)

●アコーディオンの渡辺光子入店。

山田恵子 - Keiko Yamada -

どん底五〇周年おめでとうございます。
私が清千秋(千秋純)と新宿のお店に遊びに伺ったのは、かれこれ四〇年も前のことです。矢野さん、清、そして後に矢野さんの奥様になられた方と三人で、焼野原の新宿に小さなバラックのお店を開店したのが、どん底だったと聞かされました。新劇の芝居のかたわらお店で働いてそれは大変だったようですが、どん底は清にとって人生の中で忘れられない青春そのものであり、又生き甲斐だったと思います。その後、清はお店をやめてニッポン放送のプロデューサーとして活躍し、私との結婚で第二の人生を歩みましたが、今から一〇年前に五七才の若さで亡くなりました。その間どん底は軽井沢とスペインのマドリーにもお店が出来、すばらしい発展を遂げて、今度は私と矢野さんのおつきあいになったのです。スペインに行く度に、お店へは勿論の事、矢野さんの御自宅にも伺って、その都度美味しい手料理を御馳走になり、又ドライブにも連れてって頂きました。外国で手料理を味わうのは最高にぜいたくな事で、私は矢野さんのご迷惑もかえりみず、毎回楽しみにスペインへ行っていると云っても過言ではありません。そうその間フラメンコのレッスンもきちんとして居りますが・・・・・。御自宅のテラスには花がいっぱい。ワインを片手に絵を描きながら悠々自適の生活をされていらっしゃる矢野さん。五〇年の間には何かと御苦労もおありになったでしょう。でも今はもう御子息が立派に後を継いでいらっしゃいます。これからは日本とスペインを行ったり来たりしたいとの事。どうぞ健康に気をつけて今まで以上にすてきな人生を送ってください。

清が居ないのは残念ですが、益々の御発展を心より願って居ります。

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『どん底』と私/平山健太郎 - Kentaro Hirayama -

昭和二八年頃だったと思う。当時私は東京大学の音感合唱研究会(略称「音感」)に参加しており、外国民謡の訳詩をしたり、昼休みの歌唱指導(本郷ではアーケード合唱、駒場ではC合唱)の楽譜のガリ版刷りや、アコーディオンの伴奏などを手伝っていた。下手くそなので言わば補充要員だった。メインの伴奏者であったひとクラス先輩の笠原紳一さん(故人)が、歌声酒場として人気のあった『どん底』で伴奏者としてアルバイトをしていたが、この笠原さんの都合の悪いとき、こちらも穴埋め要員として何度か雇っていただいた。当時の私は酒は全く飲めなかったが、日当のほか夜食を提供していただけるが有り難かった。フライパンで炒めたソーセージの味を今も懐かしく覚えている。卒業後NHKの記者になり、内外各地の転勤を重ねたため『どん底』とも「歌声」とも縁遠くなってしまったが、ふらりと立ち寄ったとき、マドリードからたまたま帰国されていた矢野社長にお目にかかれ、嬉しかった。「歌声」時代よく出入りしていた。「音感」のメンバーたちも殆どが既に還暦を過ぎているが、隔年ぐらいに「同窓会」と称して集まっているほか、私は加わっていないが、その半数ぐらいが「The Onkan」という熟年の混声合唱団を作って、仲間の作詞作曲による新曲を含むコーラスの練習を続けており、一作年秋には「駒場祭」(こちらも五〇周年)で、若者たちに負けじと、ステージに立っている。

NHK当時の業務がきっかけで、過去三〇年近く中東地域との縁が深くなり、今でも毎年二、三度は紛争が続くイスラエルやパレスチナに足を運んでいるが、ソビエト連邦の解体前後から雪崩を打ってイスラエルに移住してきたロシア系ユダヤ人(一〇〇万人)たちが、当時私たちが歌っていたロシアやソビエトの歌を大量に持ち込んだ。中にはエルサレム都心部の盛り場でそれらの曲をアコーディオン演奏しながら小箱に投げ銭を集めている姿もよく見掛け、ほろ苦い想い出に浸らせてくれる。

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