1963年(昭和三八年)

●現店長相川紘一郎、アルバイトとして入店。

美川憲一 - Kenichi Mikawa -

開店五〇周年、おめでとうございます。
ひとくちに五〇年というけれど、長い道のりよねぇ。

新宿三丁目界隈も、もうすっかり近代化されて、昔の面影はどんどん消えていくけれど、『どん底』だけは昔のまま・・・・・。

私が、『どん底』に通い始めたのは、昭和三八年、東宝芸能学校に入った頃よ。あの頃はまだ未成年だっていうのに、チョロチョロチョロチョロ新宿二丁目、三丁目界隈の小さなディスコやショットバーに出入りしてさぁ。『どん底』には知り合いの人が連れていってくれたんだと思う。

当時は、俳優の卵、舞台・映画監督、作家を目指す人たちが大勢来ていて、あの界隈じゃ、『どん底』は、独特の雰囲気がある不思議な感じのお店だったのよ。確か、前田吟さん、村井国夫さん、峰岸徹さん、吉田日出子さんたちも常連だったんじゃないかしら。

私も含めて、みんなまだ無名だったけれど、自分の夢を語る時は瞳をキラキラ輝かせて、たった一杯の水割りで、何時間語り合ったことか・・・。『どん底』は、それを認めてくれるいいお店だったのよ。それで、「今日は私、一銭もないわ」っていう時でも、店に行けば誰かが飲ませてくれたしねぇ。

『どん底』の地下、ゲイバー『ラ・カーブ』にも連れて行ってもらったわ。アラン・ドロンが初来日して、お店を訪れたときは、週刊誌に載ったりしてもう大騒ぎだったみたいよ。

三丁目って所は、あの頃からわりとゲイバーが多くてね、いまでこそ二丁目が、ゲイバーのメッカみたいに言われているけれど、ゲイバーは三丁目の方が先。『ラ・カーブ』と、その近所にあった『蘭屋』、『しれ』は、ゲイバーの走りみたいなものだったのよ。

昭和四〇年に、新人歌手としてデビューしてからも、『どん底』、そして三丁目には随分通い詰めたわ。「柳ケ瀬ブルース」「さそり座の女」が大ヒットしてからだってあんた、仕事が終ると一目散に直行して、朝まで飲んで、一睡もしないで仕事場に行ったことだってあるんだから〜。

恥ずかしい話だけど、酔って階段から落ちたり、その場で寝ちゃったり、嘔吐したり、いろいろやったわ。でも、みんなとても優しくて、寛容でさ。私にとって唯一、気の許せる場所だったのよ。

そして、昭和四四年、私が三丁目に『ろくでなし』(現・『マレーネ』)というお店を持ったのも、ここが私にとって、あまりにも想い出深い土地になっていたから。

色んな人と出会い、飲んで、笑って、涙して、愛する人との別れもあったこの街。人にはそれぞれ、過去を振り返ってホロリとする場所があるっていうけれど、『どん底』、三丁目は、私の青春の一ページだもの・・・。

『どん底』には、これからも六〇年、八〇年・・・と変ることなく、いつまでもこの地に、その姿をとどめて欲しいと願っています。

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『どん底』は五〇才!四八年の符合/田村悳 - Isao Tamura -

私が新劇界に、のめり込んだのは一九五三年(昭二八年)夏。その頃の仲間に連れて行かれたのが、新宿伊勢丹の東、三和銀行北側の横丁。間口一間、奥行半間位と思ったが、もう少し大きかったかな。七人も入れば満席の感があった。現『どん底』前身である。

カウンター内には、笑顔を絶やさない、「どんマス」こと矢野智さんがいた。今と変らないヘアースタイルと人柄は四八年の付合いだが、『どん底』は五〇才になる。

何と響きのよい。DONZOKO・どん底・どんぞこ・『どん底』。M・ゴーリキーの名作と同じ店名の飲み屋。毎夜でもないが、どんカク(どん底カクテル=何がミックスされているかは、企業秘密とかで今だに知らない)に酔い痴れた。洒落たネーミングに怪しい文化的な味。今でも必ず注文し昔を懐かしみ満足している。当時私達のギャラでは、他の飲み屋では安心して酔えないが、『どん底』では良い気分にさせてもらいました。客達も、ここの雰囲気が好きで結構楽しんでいた様だ。この狭い処は、永くなく翌年には現在の場所に、ユニークな建物でグレード・アップでオープンされた。そのまゝの姿で今日まで続いていることは、何と素晴らしいことであろうか。

今新宿で一番古い店となったことは、感無量である。

俳優座と共に私は、劇団三期会(現東京演劇アンサンブル)の仕事が多かった為に、クマ(熊井宏之)さんやヨースケ(入江洋佑)、ジュン(本郷淳・昨年没)、ハンチョウ(井川敏明・現愛川欽也)、ヨーコ(小松原麗子)、セコ(鈴木節子)の皆さんとの酒盛りを想い出す。淳がNHK「バス通り裏」に出演し、人気者で面倒見がよろしい故か、十朱幸代、大森暁美、柳川慶子の美女達との同伴で私達を喜ばした。淳はその後慶子さんと結婚ニ子に恵まれる。

ある日、前出のクマさんが「音響効果をやりたい者がいるが逢ってやってくれ。この男は同じ九州出身で、めっぽう腕が強く、喧嘩上手。こんな男を弟子にすると新宿あたりでも安心して歩けるぞ!」と『どん底』でアルバイトをしていた山本康敬との出合。背が高くて立派な体格、気風がよく酒も強い。一発で合格。私の一番弟子で、その後劇団民芸に入り数々の素晴らしい仕事をした。一〇年前に五八才の若さで、惜しくもこの世を去った。

越後湯沢にスキーロッヂを建設し、その音響設計を頼まれ、山本君と共に現地に行き大いに楽しんだ。矢野さんは、万能型で猟銃・スキーと色々と手ほどきを受けた。私達一家も、度々利用させて頂いたのも懐かしい思い出である。五年前お孫さんを連れた矢野さんと共に、淳や松村進氏のお世話で、中国の上海・揚州・無錫と「チャーハンと紹興酒を楽しむ旅」は面白かった。又色々と宜しくお願い致します。

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