1968年(昭和四三年)

藤本敏夫 -Toshio Fujimoto-

時代という得体の知れないものに対する青年学生の起爆装置が少し外れた六〇年代後半、『どん底』とはそれ程縁の無かった僕が、マスターに気安く声をかけられるようになったのは八〇年代に入ってからであった。
六〇年代は警察に追われていたし、七〇年代前半は刑務所に入っていたからだ。
今だから話せるようなものだが、逮捕状が出て明治大学に潜伏していた六八年の六月のある日、ブント明大キャップの池原の誘いにのって『どん底』に飲みに行く途中、御茶ノ水のアテネフランセ前で警視庁公安に捕ったことがあった。
「何故、御茶ノ水の路上を夜中にブラブラしてたんだ」と組織の会議で追求されて、池原も僕も返答に窮したことを覚えている。

鉄瓶で煮えたぎった湯は蓋がなければ、何の危険もなく蒸散するが、重い蓋が乗っているものだから、小さな蒸気穴から「ピー、ピー」と音をたてながらエネルギーを吹き上げる。青年、学生の政治運動はいわばそれに似たようなものであったが、それが小さな一筋の水蒸気であったとしても、鉄製の蓋の重さや、外界の冷気を感じたという点では時代精神の水脈を一つ作り出した。
その水脈を共有する者にとって『どん底』は心の襞に染み付いた小さなインクあとのような気がする。
たとえ『どん底』の常連でなくとも、極端にいえば一度も行ったことがなくても、『どん底』という店があるということだけで、枯れることのない水脈の存在を感ずるのだ。
そのように時代精神の一つの地下水脈であり続けた店は少ない。
新宿三丁目で地下鉄を降りて、伊勢丹の前で地上に出ると、時の流れに関係なく、『どん底』への道が白く浮き上がって思えるのだ。
『どん底』は不思議な店だ。

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森次晃嗣 -Koji Moritsugu-

『どん底』五〇周年おめでとうございます。
昭和四〇年頃故郷北海道から上京して、新宿に来てはじめて入った店が『どん底』であった。そして今の仕事をする様になったのも『どん底』で知りあった人達のお陰である。『どん底』は私の人生の分岐点でもあるのだ。新宿に出ると必ず足が『どん底』に向う。はじめて入った時と全く変らぬ風景で私を向えてくれる。
いつの時代になっても何処か『どん底』は私にとって初心に帰れる場所なのである。
『どん底』に乾杯!!

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大下晴義 -Haruyoshi Oshita-

『どん底』と云われて想い出すのは、「雪山讃歌」〜雪よ岩よ我等が宿に〜三五年前三階でアコーディオンと共に唄った頃が甦ってきます。
若林さん林バイちゃん等石内プロスキーヤーの面々を中心にオフシーズンにはよく『どん底』に集ったものです。
丁度あの頃フォークソングが流行り始めた頃で、若かった。楽しかった。矢野ちゃんの素晴しい滑りは今も記憶の中にキッチリ残ってますしその余韻をそのまま『どん底』に引きずって来て、朝まで飲んでしまった。
その頃新人監督だった瀬川栄之氏と喧々囂々と電車がなくなるのも忘れて飲み明した事、鮮やかに甦ってまいります。そしてそのお店がそのまま残っているのも嬉しいかぎりです。
いつまでも、いつまでも続けて下さい。
フレーフレー『どん底』!

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