1975年(昭和五〇年)

●マドリッドに『どん底』スペイン店オープン。

マドリーのどんぞこ/初芝澄雄 -Sumio Hatsushiba-

昭和五〇年頃でしたか、知人に連れられてマドリーのどん底に行き、初めて矢野さんに会いました。この店は今のお店ではなく、同じエチガレーですが、古い方の店でした。そんなわけで以後東京で、そして新しいマドリーどん底は旅行の度に何回かお邪魔してをります。しかし何といっても、自宅の方にも何回か呼ばれました。そして思いもかけず家族共々んい日本の味を御馳走になったことは深く心に残ってをります。特に私はワインは醸造後二〜三年のものと思っていましたのに、ものすごく古いワインを出して頂き、本当にその味に驚かされました。一緒に買いに行ったワイン店で見た古いワインの数々にも認識を新しくした事も思い出します。

ある暮の旅では思いもかけず握りずしがでて、遠く故国を思い出したものでした。しかし何と言っても話にしか聞いていない“シラス”が出た時は感激でした。その時はシーズンではなかったのですが、私の手紙を見て、わざわざ冷凍して用意されていたのでした。味は絶品。その後女房がレシピーを聞いて帰ったのか、イワシのシラスを代用して時々食べていますが、これも結構イケまして、その度にマドリーの話に花が咲きます。

もう一つ思い出すのは冨士真奈美様のことです。私は予々から富士様については、俳句の上手な方として知っていました。しかし矢野さんの友人であることはマドリーで知ったのですが、実はホタルイカの沖漬が出されて、これが富士様の物である事を知らされました。私にはワインにとても合い、帰国後シーズンになると沖漬を求めていて、食べる度に矢野さんの顔共々、映像でしか知らない富士様のお顔が交叉します。矢野さんの賀状には毎年句があります。事情は分かりませんが、富士様の発句と共通の流れがある様にも思ってをります。

考えてみますと矢野さんを知って二昔以上になります。どん底の仲間の方達よりずっと新しい付き合いと思いますが、健康診断に帰国される節、里花子様夫婦のお世話をすると云う事を加えて、矢野さん一家との交際は長く、私の人生の中で、スペインと言うと、矢野さんなしには考えられないことになっている。今日この頃です

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『どん底』のこと/黒木和雄 -Kazuo Kuroki-

私が上京したのが五四年(昭和二九年)だからもう開店して三年目位だったのでしょうか。助監督だった私が飲むのは新宿、池袋界隈で、当然安酒場めぐりでした。『どん底』をのぞいたのもその頃だったと思います。しかし記憶は朦朧としていて、ただもう漠然と現在の『どん底』のイメージが重なって思い出されるだけです。むしろ久しく行かなくなって、新宿の街に『どん底』の看板を路地に発見して思い出を捜すように扉を押したのが十数年前でした。その時の印象は「昔と変らない」というものです。ですから私のなかの『どん底』は半世紀変わりません。矢野さんに会いたくてマドリッドに行ったとき、ホテルに着くやいなやお店に直行しました。滞在した数日間毎晩矢野さんと旧交を温めることでスペインが身近なものに感じられました。矢野さんが帰国されたとき、「今夜は美女三人(女優さん)が店にくるようだからご紹介しよう」という電話があり、三〇分も早くきて『どん底』のカウンターでそわそわしていたのですが、生憎、緊急打合わせの呼び出し連絡があって断念せざるをえないという痛恨事がありました。いまでも惜しいことをしたと悔やまれます。たしかそれ以来矢野さんとはお会いしておりません。この八月から九月、新作ロケのため南九州の田舎に滞在しております。これも寸暇をえて旅館の部屋で書いたものです。私の青春とともにあった。『どん底』の思い出をゆっくり回想する余裕もなく短文になってしまいました。すみません。

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