1976年(昭和五一年)

大森暁美 -Akemi Omori-

先日、「NHKのディレクター時代に何度か行ったことがある!」と弾んだ声で云う姉を『どん底』に連れて行きました。
過ぐること四〇何年?ひたすら涙ぐみ、汗をかき、若き日のあれこれを語る姉。
そう私も、この店に来ると、なにやら不思議な昂まり、ワクワクした感情におそわれるのです。
あの頃。あの頃は本当に若かった。
四〇年後の今の私たちなんて想像だにしなかった。恋もお酒もどんと来い!の青春真っ盛り。
タイムスリップした二時間が過ぎてふと我にかえり、ため息と、ほんの少しの若さを取り戻したような気持で店をあとにしたのでしたが。

はじめて『どん底』に行ったのは、ドラマ『バス通り裏』の頃、連れてってくれたのはドラマの夫役の本郷淳さん。
お酒の味なんてさっぱり判らなかったけど、ともかく楽しく、大騒ぎをして飲むべし、そう教えてくれたのは彼でした。
以来、賑やかに大騒ぎをして飲むという私の癖は治っては居りません。

なのに、淳さんは逝っちゃいました。
思い出の三階で『偲ぶ会』がひらかれるなんて、なんということ。
あれからもう一年も過ぎたのですね。
月日の早さを思い知らされます。

風月堂、歌声喫茶、ゴールデン街、懐かしいあの店、この街の灯りも消えてしまって『どん底』だけが昔のまま。
いえいえ三階なんて昔よりずっと綺麗になって私たちを迎えてくれる。
ほんとにホッとします。嬉しいです。
少々デブになっても、ハゲになっても、白髪のおばあちゃんになってもほんのちょっと時間が経てば昔の顔が戻って来ます。
こんな、居心地の良い『どん底』さんよ。
いつまでもいつまでも御健在であられますように・・・。

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東皓雄 -Akio Higashi-

『どん底』開店五〇周年おめでとうございます。
私は生まれてすぐに新宿歌舞伎町に移り住み、幼稚園は柏木幼稚園、小学校は戸山小学校、大学は東京医大、職場も東京医大病院と新宿を心から愛してやまない新宿っ子です。そんな新宿にデンと店を構えて、しかも五〇年も続けているというのは、すごい事です。本当に感謝をいたします。

新宿は私の青春そのものでした。遊びは勿論新宿。新宿を馬鹿にする奴は生かしちゃおかないとばかりに飲んでいました。仕事が終わり新宿中を飲みまわって、そのまま仕事なんて事はしょっちゅうでした。『どん底』へどのようなきっかけで行くようになったのかは、はっきり思い出す事はできませんが、店中タバコの煙でむせかえる中、役者さんと思しき人が激論を交わしているかと思えば、下の方からはロシア民謡が聞こえてくるというような独特な雰囲気を持った店だったのは妙に覚えています。その頃は私が大学へ入学した時でした。遊んでいるうちに歌舞伎町の樽小屋というゴーゴースナック(今で言うクラブ)でアルバイトをするハメになりました。当時は結構名の通った店で仕事はいわゆる黒服。現在と違ってマクレガーのクールシャツに黒のマンボズボンで随分安上がりでしたが、勿論いい思いは沢山させて戴きました。その後、樽小屋の支店が二丁目、三丁目に開店しましたので、その頃『どん底』に連れて行かれたのかもしれません。その後しばらく『どん底』に行く機会がなかったのですが、店の前を何げなく歩いていて、昔こんな店に入った事があったなあと、ひょいと入って相川さんと再会しました。それ以来、病院の帰りに寄ることが多くなりました。一人で飲んでいても、相ちゃん、厨房のチーフ相手に楽しいし、職場の若い人達を大勢連れて行っても喜んでもらえるそんな店でした。

現在、茨城の病院に出張しておりますが、東京に戻る時は必ずよらしてもらっております。最近気づいたのですが、私のボトル(バーボン)のキャップをふと見ると、いつのまにか(No.1)になっておりました。五〇年も続いた老舗でこんな名誉な番号を頂けるとは感激いたしました。この座を渡さないためにも、長生きして一生懸命通わせて頂きます。
『どん底』さんにあらためてお願いします。我々飲んべえの為に、いや新宿の文化の為に、この店をこの形のまま残して下さい。

『どん底』に乾杯。

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