1980年(昭和五五年)

越路吹雪 -Fubuki Koshiji-

(生前のコメントより抜粋)
新宿の街を知りはじめたのは新宿コマ劇場が出来てからですからあまりなじみの店はありませんが、それでもこんなに毎年毎年新宿の皆さんとお仕事をする機会にめぐまれますと、何時のまにかすきになっている店が出来ているものです。

どん底のピザパイは新宿でお仕事をする時の楽しみの一つです。唄をききながらいただくのもよいですが、舞台の幕間に楽屋でいただくのもおいしいものです。

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宇野亜喜良 -Akira Uno-

六〇年代の初め、越路吹雪さんのリサイタルのポスターの打合せで、越路さんのマネージャーと『どん底』で待ち合わせをしました。その時に矢野さんを紹介されたのが最初のように記憶している。ひょっとして、『どん底』というところは、ゴーリキーの戯曲からネーミングされているとすれば、左翼系の店で、アコーディオンの演奏でロシア民謡などを歌っていたのかなァ、という気持もするけれど、少なくとも六〇年代にはそういう残像はなかった。その頃、ぼくは日本デザインセンターというデザイン会社に勤めていて、そこにゲイの友人がいて『どん底』の地下にあった三島由紀夫のネーミングだといわれる「ラ・カーブ」とか、その先の「らんや」とか何軒かのゲイバーに行ったりしていたのだけれど、そのくせ『どん底』にはあまり出入りしていなかった。たぶん歌声喫茶的なイメージを勝手につくって敬遠していたのだろうと思う。その後は新宿文化劇場の映画のはねた後や演劇公演を観たあととか、やがて地下にオープンした蠍座の打ち上げで葛井欣士郎さんや加賀まりこさんたちと出掛けたりした。『どん底』は今でもあの頃のたたずまいで、立派に営業を続けているが、この店はぼくたちの年代にとって、新宿ルネッサンスであったあの『熱い六〇年代』のシンボルの一つでだったのである。

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コーク・ハイから/安部正己 -Masami Abe-

今から三〇数年前、生まれて初めての酒を“どん底”の地下カウンターで飲みました。
それは、コークハイでした。
美術教室に通っていた高校三年生の夏でした。そういう所にはもう何年も美大受験に失敗しているが、どこか芸術家気取りで、もう立派な大人の“主”の様な者が必ず一人はいて、その者に連れて行かれたのが“どん底”でした。
何か、すごく刺激的で、キョロキョロ、ドキドキの一杯でした(店の外に出ると、目の前に“ケニー”の看板があった)。
何年かして私は、大人漫画の巨匠、横山隆一先生の主宰する「おとぎプロダクション」に入り、アニメーションを教わっていました。そして、そこにいたカメラマンに、なんと、何年かぶりに、また、“どん底”に、連れて行かれました。
この時は、私も、少しは落ちついていて、ドンカクなどを、「これは、いいやー」と、えらそうに飲んでました。
独特の、店の雰囲気、イキのいいスタッフ(相ちゃん、山ちゃん、荒さん、岡ちゃん・・・・)。すっかりこの店のファンになりました。
その後、私は本格的にアニメーションに関わって行き、手塚治虫先生の「虫プロ」に入る為に、住まいを横浜から、練馬に移し、“どん底”へも、本格デビューとなりました。二〇代の始めごろだったので、体力はあったから、仕事はハードなのに、週に何度も、“どん底”や、その回りの店々に(テアトロ、ザ・セラー、のらくろ、二條・・・・)、足繁く顔を出し、そこに集う様々な人達との交流を楽しくさせてもらい、青春を謳歌していました。

しかし、さすがに四〇代に入ってからは、体力的にも、あまり多くは通えなくなりましたが、「さあて、今夜は一杯やるか」という時は、なるべく“どん底”からのスタートを目指します。
重い扉を開けると、相ちゃんが、昔とちっとも変らない笑顔で「やーっ」、と迎えてくれると、一瞬のうちに若返っていきます。

今はカウンターで、焼酎のウーロン茶割りなんかを、チビチビやりながら、チーフの“富さん”と、少しだけ話をして、引き上げますが、気分は最高です!
さて、今夜も繰り出すか!

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