1982年(昭和五七年)

若き日のどん底/森塚敏 -Bin Moritsuka-

私の所属している青年座が、今年で創立四七周年を迎えているから、『どん底』が五〇周年だとすると、私が店に出入りしていたのは開店早々の時であったらしい。

当時私は、俳優座養成所を第一期生として卒業し、俳優座の研究生になって一年程経った若手俳優だった。

今では華かな新宿の街も、その頃はあちこちに戦災による廃墟が残って居り、厳冬の季節には寒風が直に吹きつけ、寒い心を一層寒くさせていた。私はちゞめオーバーのポケットに両手を突っ込みながら、酒を求め友を探して、毎晩の如く『どん底』の扉を開けた者である。

当時の酒は、カストリとかパイカルとかが常飲酒で、めったにビールなどの高級酒は飲めなかった。『どん底』では当時、どんな酒を飲んでいたかは覚えていない。
私達仲間は、思想を論じ芸術を語り合ったが、世に背を向けて新劇をやっているという意気込みがすぐに激論となり、夜も更けてくると、その様なさわがしいテーブルがいくつも出来た。又、『どん底』の名にふさわしい店内の暗さが時の経つのを忘れさせ、夜の明けるのも気付かずに飲みまくった。

その頃、俳優座若手俳優二八名の間で当時見向きもされない故に、書き手までが居なくなった創作劇を、若手の力だけで上演して行こうという動きが起こった。その結果、六ヶ月に及ぶ内部討論と上層部との交渉を経て、一〇名だけが退団して新しく劇団を作り、書き下ろしの創作劇の公園を上演して行く事になった。それが一九五四年五月に生れた青年座であり、私も創立者の一員として加わり、現在までの青年座の歴史を作る事になった訳である。

劇団を作る迄の仲間同志の相談も、数知れず『どん底』で行われた。だから当時の『どん底』には、新しい劇団を作ろうとする、烈しい夢に燃えていた私の若き姿が重なっているのである。

その後私は胃潰瘍に悩まされ、長期の禁酒を強いられ、それ故酒場を訪れる事も無くなり、『どん底』にも足が遠のいた。

一九九八年秋、劇団のスペイン公演でマドリードを訪れた際、『どん底』の支店が有るというので、同行の仲間と出かけて行った。オーナーの矢野さんもいらっしゃって、久し振りに懐かしい話に花が咲いた。

店の雰囲気は新宿とはまるで違い、アットホームの観の有る日本的な店であったが、年老いた今の私にはしっくりとくる良い店であった。

新宿の方には全くの御無沙汰だが、二三才になる私の一人娘が、ちょくちょく顔を出している様である。やはり若者の好む雰囲気なのであろう。

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加藤巧 -Takumi Kato-

どん底。はじめて行ったのが二階のカウンターだった。そこで、ふさふさと若々しく、凛々しく働いていたのが相ちゃん。ちょうど東京オリンピックの頃で、景気も上向き、店に来る人達も元気で、活気があった。相ちゃんの明るい人柄に騙されて?ちょくちょく通うようになったらしい。その頃はまだ学生でお金もなく、そう頻繁には行けなかったが、卒業して就職した場所がどん底に近かったのが運の突き、まさにどん底人生のはじまり。先ずは付けを覚えた。六カ月毎のボーナスで払うわけだが、ボーナスが安いのか、飲み過ぎなのか、いつも足りなくて友人などに迷惑をかけた。喧嘩もよくした。三丁目の地下にある警察の詰め所によく入れられて、調書にサインをさせられた。あまり酔っ払いすぎて相ちゃんが代筆をしてくれた事もあったらしい。後で聞いたのだが、その頃来ていた一〇〇キロもありそうなラグビー部の学生がその筋の人と間違えていたらしい。いまでも親しくつきあっているが、こっちのほうが恐ろしいくらいの大男だった。どん底に行っていなかったらつまらない人生になっていたと思う。あんなにたくさんの色んな分野の人達と知り合った事。お金はないけど大きな財産を与えてもらった。メキシコオリンピックで銅メダルをとったサッカーの杉山さんが、一年後に結婚式に来てくれて、人気を独り占めにし、新郎の自分を悔しがらせたのもいい思い出である。今は、古希を迎えたオーナーの矢野さんが、来年還暦を迎える自分と、飲んでくれる酒が楽しい。六〇周年をめざして元気でいて欲しいものだ。

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浅利香津代 -Katsuyo Asari-

『どん底』五〇周年おめでとうございます。五〇年とは本当に驚きです。どれだけの人達が『どん底』で人生を語り過したことでしょうか。想像しただけでも身が震えます。私は正直言って『どん底』にはたくさん伺っていません。でもこれからも伺おうと思っております。私が『どん底』に行くのは相ちゃんが居るからです。私は相ちゃんが大好きです。相ちゃんが『どん底』のそばで『のらくろ』をやっていた時、芝居の稽古が終ると毎日のように仲間と出かけ、時々は外に出ると夜が白々と明けているという日々でした。店に入ると相ちゃんのあのよく通る声がかかり、席に着くと本当に落ち着くのです。相ちゃんが時々席に来ていろんな話をしてくれるのです。おもしろかったなぁ?むなしい時、淋しい悲しい時、希望を失った時、いい気になっている時、いろんな時々に相ちゃんは変らず迎えてくれ、今、相ちゃんのパワーを想うと「すげえ人なんだ」と思います。元気と優しさをもらいました。相ちゃんが『どん底』にいるから、相ちゃんに会えるので行くのです。これからも。

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