1986年(昭和六一年)

『どん底』の新座者/竹村文近 -Fumichika Takemura-

ヒマラヤ、アンデスばかりの私であるが、ヨーロッパだって行ったことがある。取り分けスペインは大好きだ。かなりまわっている。一〇年以上も前になるが、「マドリに行くなら、サトシさんの所へ寄ってらっしゃいよ」と言われた。加賀まりこさん、吉行和子さん、富士真奈美さんからだ。新宿の『どん底』より先にマドリの『どん底』に行ったのが自分にとっては初めてである。友人たち数人で訪れた異国の『どん底』は盛況で、食べ物もうまかった。初めてお会いした矢野智さんから色々とアドバイスを受け、スペイン一周の旅をした。サトシさんとうちにみえる患者さんたちとは重なる知人が多い。不思議な縁に驚いた。サトシさんは、日本に来るたびに必ずチョコレートのお土産をたずさえて来た。自分の母親の好物である。記憶力のよい人で本当に優しい人である。新宿『どん底』に行ったのは、ずっと後のこと・・・。

「竹村君!」と突然サトシさんから電話がかかるように自分も突然、知人達と『どん底』へ行く。必ず顔見知りの人がいる。沈黙の挨拶をし、暗黙のうなずきを交わし、お酒が始まるのだ。自分はここでは新座者である。還暦の『どん底』が楽しみだ。

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「淳さん」/福原圭一 -Keiichi Fukuhara-

私はDNAのせいで酒がのめない。
だから『どん底』に相ちゃんに頼みごとをする時に行くだけで決して客などではない。何か書く資格など更々ないし、だいいち材料がない。その私が書けるのは本郷淳の想い出だろう。それがそのまま私にとっての『どん底』になりそうな気がする。

三六年前のその日、『どん底』の三階フロアは三期会(現・東京演劇アンサンブル)の打ち上げパーティで盛り上がっていた。その中心にいたのが司会をしていた淳さんだった。メチャクチャな口の悪さは劇団員に対してなら創立者の特権も許されるが、招待客に対しても同じ、お店に対しても変らず、遠慮・配慮などはどこにもないのである。入ったばかりで事情を知らない私は『どん底』もこの人が創立者なんだと錯覚した程だ。然してその軽妙さは、反論したり腹を立てたりするいとまもなく、一切の異議申し立てを許さないスピード感は壮快ですらあった。当然俎上に載せられていた私も他人事の様に笑い通しだった。

そんな場では新入りの座る席などないのが常で、階段に立って木の手摺りを磨いていたのを思い出す。階下の二階フロアーを見ると、開演に遅れて席のない先輩達がカウンターで飲んでいた。グラスと指の馴じみ具合いは充分に常連の雰囲気を醸し出していた。

貧乏な新劇役者があれ程似合う、似合うだけなら他所にもあったが・・・、恰好つけて飲める場所は『どん底』を置いて無かったのではないだろうか。

まっとうに働いているサラリーマンもいたし、将来金持ちになりそうな客(実際なってる人は大勢)、全くなれそうもない客(これ又大勢)、皆並んでドンカクを飲んでいた。車を持ってる役者が珍しい時代だ。淳さんは当時TVの仕事も多く、世間的には金持ち役者と見られていた。それに著名な彫刻家の御曹司でもある。飯を食わせて貰うぐらい遠慮は要らない。家にもちょくちょく行ってごちそうになった。もっともその分は麻雀でしっかり取られた。二〇数年後、スペイン内戦を題材にした芝居を企画していた私は、改めてマドリッドの矢野さんを紹介して貰いスペインのへそ、プエルタ・デル・ソル近くの『ドンゾコ』を知った。二度目には矢野さんの手料理を家でごちそうになる厚かましさ。その折、榎木孝明さんと偶然一緒になったが、彼も柳川慶子さんの紹介で矢野さんとは初対面だったらしい。こうしてスペインでこの人のお世話になった人は多いが、辿り着くと淳さんに行き着くみたいだ。今年七月に、これもスペイン内戦に題材を得た舞台、『壁の中の妖精』の実在するモデルに会うため三度目のスペインに行って来た。

帰って間もない八月一五日、新宿どん底で本郷淳の一周忌がの集りがあった。一年前、悲痛な顔で親友を見送った矢野さんに、いつものあの笑顔が戻っていた様な気がした。

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