1987年(昭和六二年)

私にとって『どん底』とは/昆春夫 -Haruio Kon-

新宿御苑の「新宿門」前の「会員制スナック昆」でバーテンダーとして、カウンターにどん底のオーナー矢野さんを初めてお迎えしたのが昭和四一年の夏真っ盛りの頃でした。陽焼けした顔にカーキ色のカッターシャツがよく似合い、体全体からオーラを発していて、ひときわ目立つ存在でした。当時まだプレー人口が一握りのゴルフに凝っておられたようで、お店に備えていたパターゴルフに興じる姿が印象に残っています。『どん底』というお店のオーナーだということを知ってからは、是非お店を覗きたくなり、休みの日にどん底の扉をおそるおそる開けてみると、薄暗い中にランプ形の照明の黄色みを帯びた明かりの下で、タバコの煙と人いきれであふれ、思い思いのスタイルで飲み、語り合う人また人で埋めつくされた店内の光景が目に入り、一瞬たじろいでしまいました。当時まだ二〇歳を一寸越えた位の私には第二期黄金時代とも言われるほど隆盛を極めていた『どん底』は少々敷居が高く感じられ、自然足が遠のいてしまいました。その内私自身、小田急線の成城学園に新天地を求め居酒屋を開き、仕事に柄もなく打ち込み、いつしか『どん底』のことも脳裏から薄らいでおりました。それから一〇年経て、ときあたかもバブルの絶頂期。私もご多分にもれず、泡に飲み込まれ、はやりの地上げとやらに遇い、成城学園をおさらばすることになりました。次の店はやはり土地勘があるということで、新宿二丁目を選びました。当然『どん底』に挨拶をせねばと、おっとり刀で駆けつけたところ、久しぶりにマスターの相川氏と再会となり、氏の穏やかなそつのない対応ぶりは以前より増して磨きがかかり、凄みさえ感じられるほどでした。店もほとんど変わっておらず、何か故郷に似た郷愁を覚えました。ただスタッフが「トミさん」と「ショウちゃん」以外はみんな私より若い人ばかりで、私も年をとったもんだなあと妙に感傷的になったことを思い出します。それからは一潟千里、雨の日も風の日も欠かさずカラスが鳴かない日があっても『どん底』に寄らない日はないぐらいに通っております。うれしい事があったにつけ、嫌な事や悲しい事に遭遇して相川氏に愚痴り、ジャイアンツが勝ったといっては仲間と祝杯をあげています。ふと亡き母が近くの神社に参り、朝夕祈りを捧げていた姿を思い出し、はたと膝をたたきました。私にとって『どん底』とは駆け込み寺であり、ありがたい神社なのだと気がついた次第です。これからも長い付き合いになるなあとしみじみ思っております。

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私と、どん底/清水壌一 -Joichi Shimizu-

昭和四九年二月、私はミカソと(三上幸子)と、軽井沢二ユー星野ホテル教会で結婚式を挙げた。立会人は阿部良、徳村真、チェツ子、相方の両親、我々の九名の質素な式であった。

これは三〇歳になるまで新宿三丁目に毎夜通い、酒代に散財した為であった。

昭和四四年、秋、下北沢のスナックの飲み仲間であった、小山伊紗子に連れられて、初めて新宿三丁目新装開店当初の『のらくろ』に足を入れた。この時より私の新宿三丁目界隈の夜の生活が始まった。

どん底、のらくろ、山小屋、その他の店々で隣りに座った、顔見知りの飲み仲間は、ニックネームで呼び合い、昼の顔は一切関係なく飲み遊んだ。

登場一ヶ月後には毎夜、飲み終わった後は、トクチャン(徳村真)、タカハル(佐々木高晴)、カッチャン(野中寿雄)等と一緒に青山のマンションか、早朝の東京温泉で仮眠し、朝八時に、会社に出掛ける日々となって居た。

昭和四五年夏、新宿十二社のアパートに引越し、一年三六五日、三〇〇回は新宿通いに明暮れ、アパートの大家は毎夜一、二時に帰宅し、早朝七時には出掛ける、間借人は何者かと、噂になって居た。

昭和四六年夏、梶原スエ子と知り合った。当時彼女は双葉社編集部で一雑誌の編集を担当しており、新宿界隈では、『編集長』のニックネームで呼ばれ、私の生活環境外の世界をもたらしてくれた。

編集長を通して知り合った人々に、チョコチャン(阿部久子)、ピヨチャン(磯村氏)、ヒロムチャン(原先生)、洋子チャン、大森誠、太田君等、この時期の交遊は一生の思い出である。

昭和四七年、どん底ボーリング大会が歌舞伎町東宝ボウルで開催され隣のレーンで富士真奈美の弟とプレーするミカソと顔を合せ、初めて話を交わした。彼女はよく、どん底の地下カウンターで女連(後にレズバーのマスターと知る)で飲む姿を見知って居たが、常にシャッキっとした姿に、こんなに酒に強い女は、いないと思って居た。しかし、この時点でも彼女が、ザ・セラーのオーナーだとは知らなかった。

昭和四八年初冬、泥酔して居たミカソを家に送った事がきっかけで付き合う様になり暮れには、結婚をする事にまで発展して居た。
新宿は佐々木高晴が転出して空いた原宿のアパートに入居した。近所のマンションには新婚の、ジャッカルのバタも住んで居た。

二月末、歌舞伎町B&Bを借切ってパーティが開かれた。発起人は矢野智、相川紘一郎、徳村真、大越基次が立って、どん底界隈の友人八〇数名が我々の門出を祝ってくれた。

昭和五〇年、娘みなが誕生、ミカソも店を人にまかせて新宿三丁目を卒業したが、今では娘が『どん底』に出入りする様になり、つきに一度位顔を出す、三〇数年の時過である。

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