1989年(平成一年)

ふるさと/山本真弓 -Mayumi Yamamoto-

その店は焼跡の中にポツンとあった。アルバイト先の講談社で知り合った浜野さんという、カット描きの小父さんに誘われて、私はお酒の飲める年になった頃、『どん底』と初めて出会ったのである。三坪ほどの店の中では、ふたりの若者がディスプレイの最中で、眼鏡をかけた細い女の人がお酒を出してくれた。若者のひとりがオーナーの矢野さんで、ほっそりした女の人が後の矢野夫人である。

二年ほどして近くに新しく二階建ての店が出来上がり、連日の大盛況で若者達は青春を謳歌し、『どん底』はロシア民謡酒場の元祖となった。その頃学生アルバイトで毎晩大声で歌っていた人と友達になり、五年後に結婚することになる。彼は店の常連だった田村悳さんとの出会いがきっかけで音響効果の道を歩きだした。そして劇団民芸に入った頃、私は山本と一緒になることを矢野さんに告げた。『どん底』二号店として銀座にローザンヌというお洒落な店が出来、私達はそこを借り切って結婚披露パーティをさせて貰った。昭和三三年五月、挙式から二ヶ月後のことで、友人たちだけの気楽なパーティだったが、お花とウェディングケーキをプレゼントしてくれた矢野さんの心配りは嬉しかった。矢野夫人と一緒に参加していた五才の節君は、今のマドリッド店の店長である。従業員の制服がルパシカになり、私が友人何人かを集めて大騒ぎで作ったのも懐かしい想い出だ。

独身時代のくせで、仕事帰りに必ずどん底に寄っていた私も、だんだん遊んでいられなくなった。彼が毎晩のように仲間を連れて帰宅するのだ。貧しいながらもありあわせの材料でつまみを作り、酔って泊まって行く人たちの朝食を作ったり、それなりに楽しい日々だった思う。三三年間の結婚生活にピリオドが打たれたのは、彼を襲った癌だった。

『どん底』四〇周年記念パーティは、私がひとりになってすぐのことで、久しぶりに会った矢野さんとは、つらくてあまり話をかわすことができなかった。なかなか体調が戻らなかった私も、仲間たちに支えられ、舞台衣装の仕事に追われながら、少しずつ元気になっていった。その後松村進さんのおさそいを受けて、義姉と共に「矢野さんと一緒に行くスペイン旅行」に二度程参加した。その楽しい旅でいつも一緒だった本郷淳さんも義姉も、もうこの世にはいない。

宇野重吉先生がつけたハチという愛称にちなんで、毎年八月八日に山本を忍ぶ会がどん底の三階で開かれている。東京生まれ、東京育ちの私にはふるさとが無い。お盆に帰省する人のように八月八日になると、私は『どん底』の階段を昇って行く。

一〇代の頃から気に入っていた言葉「楽しき年も幸の日も、春の水のごとく走り去りぬ」。これが今の私の心境である。

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山口孝典 -Takanori Yamguchi-

『どん底』が五〇周年を迎えたと聞き、凄いものだと思った。私と『どん底』とのかかわりは、今のマスター相川君が、高校時代からの友達で今もって長い付き合いをしているからで、相川君なしでは『どん底』とのめぐり合いはなかったと思う。

昭和三〇年頃、学生生活を同部屋で過している頃に、彼はアルバイトに夜の仕事を選び『どん底』へ行きついたと思う。その当時でも『どん底』は一〇年の年を経ていて、多くの諸先輩、文化人の飲み場所であった。

貧乏学生にとってそう度々飲みに行けなかったが、当時の『どん底』の印象は強烈に焼きついている。

歌声にあふれ、若いエネルギーがほとばしり、ぶつかり合っていて、私などは、小さくなって飲んでいたと思った。強くもないのに・・・。

つい飲み過ぎ、ゲロを吐き吐きアパートに帰ったものである。私はサラリーマンとなり、相川君とは違う世界に生きてかれこれ四〇年・・・機会があれば、どん底へ顔を出している。店でのこと、又相川君とのことなどを思い出せば一晩や二晩では語りつくせないが。

ともあれ五〇周年の年月を過してきた『どん底』という店は、改めて凄い店である。これからも末永く次の世代へと受けつがれていくことを祈りつつ、心よりお祝い申し上げます。

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世界の『どん底』に通う日々/野村万之丞 -Mannojo Nomura-

仕事柄、一年の三分の一を海外で、また三分の一を東京で生活している。仕事の内容を、プロデュース、演出、学者とそのたびに職種はいろいろ変われるが、唯一変らぬ事がある。それは舞台がはねた後などの、飲みに行く癖だ。そして、それらの各地の飲み屋は決まって、3Kと呼ばれる「きつい・汚い・危険」な場所である。

なぜ、そのような場所に惹かれるのか、自分自身でもよくわからないが、たぶんステレオタイプのように、人工的に作られた店では我慢できず、また新しいプロトタイプにもそぐわないのだろう。きっと心の奥底にある琴線に触れるアーキタイプの飲み屋が、3Kの場所なのだ。

思えば、一〇代から四半世紀通っている『どん底』もそんな匂いのする店なのであろう。最近、本家本元のどん底に行く機会は少なくなったが、逆に世界中のどん底を求めて今日もせっせと飲み屋に通っている。

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