1998年(平成十年)

矢野仁明 - Hitoaki Yano -

五〇周年おめでとうございます。
我々飲食店を営むものとして気の遠くなる様な年月です。以前より料飲組合員として顔見知りではありましたが、何年か前、郷土料理『佐賀っこ』を営んでいた橋本豊さんに改めて紹介され、懇意な仲に成りました。料飲の組合長を受けるにあたり、副組合長兼総務部長を相川さんが引受ける条件だったら、とくどき、又商店会も同じ条件でお願いを致しました。

その後コンビとして実に良く働いてくれました。人の世話を苦にせず、めんどうみの良い人です。さすが佐賀人と感心しております。もう年ですので(本人はまだ若いつもりの様)のんびりと過したらどうですか。相ちゃんの好きな釣はともかくゴルフでしたら付合えますよ。

これからも新宿の老舗の洋風居酒屋として増々の発展をお祈り致します。

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ありがとう『どん底』/喜多井敏夫 - Toshio Kitai -

二十歳の頃に出会った『どん底』が、自分の生活の一部になっていることを、三〇代始めに痛感した。

五〇代になり、酒と友人、そして会話を懐かしく思うおもいが、蔦の館の鉄の輪の取っ手をひき、『どん底』のカウンターに座っている。

「私は人に恵まれた」とおっしゃるドンマス、矢野さん、五〇周年、本当におめでとうございます。

僕は通称「あっこさん」こと林昭子さんに、マドリッドの『どん底』、そして花と観葉植物にあふれた、矢野さんのお宅につれていってもらった。マドリッドで、なんとお豆腐まで入ったあんこう鍋をご馳走になった。アンギラス料理、今でこそ出まわっている大きい、赤いピーマンの皮を薄く焼いて、きれいに洗って、お浸しにして食べる初体験もした。世界の三大美果といわれるチェリモジャも初めて食べたが、たまに東京でみるとスペインの思い出がよみがえってくる。

『どん底』は、うたごえから入門。地下や三階でおばちゃんのアコにあわせ、うれしい時も、悲しい時も、みんなで心をひとつにして歌っていた。メーデーの帰り、デモの帰り、そして仕事の帰り、いつも『どん底』にいたような気がする。

それからは二階に移り、池ちゃんとのつきあいが始まった。

ツケは、全て従業員もちの時代で、池ちゃんの給料日に、「お前のツケを払ったら給料がなくなったから持ってきて」といわれ、自分も給料袋を持ってかけつけたのも、今は懐かしい日々だった。

二階のダンロには、薪が赤々と燃えていて。ダンロで焼いもも焼いたし、カウンターの上で踊ったりもしたけど、矢野さんゴメンナサイ。

三〇代の後半、自分も下北沢で「おっとっと」という居酒屋を開いた。料理の修行はしたが、商売の修行はどこでもしなかったが、僕の修行の場は『どん底』だったと今も思っている。

カウンターでの、スタッフとのやりとり、そして隣りあったお客同志の会話やつながりは、「おっとっと」でも引きつがれ、お客さん同士のつながりは深いものになっている。

そして楽しい、おいしい酒の『どん底』の思いが、「おっとっと」の思いにもなっている。

矢野さんには、直接手ほどきは受けなかったが、矢野さんの作られた『どん底』で、修行させてもらったと、今でも感謝してます。

今は一階で、相川さん、富さん、そして出戻りの土岐ちゃんの世話になっています。
皆さん、今后とも頑張って下さい。

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